多摩から世界へ

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Category: 地名 (page 1 of 2)

稲庭うどんだけじゃない、稲庭城もあるぞ!稲庭三種の神器にはまった話

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inaniwa

いや~稲庭にすっかりはまりました。それが稲庭うどんだけじゃないんです。「稲庭の三種の神器」にです。

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三鷹の地名の由来はずばりこういうことだ!

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mitaka

今回は恒例の地名由来シリーズです。ターゲットは多摩の最東端に位置する「三鷹」。個人的な感覚では、位置的にはほぼ23区ですが、街の顔はけっこう多摩感が残っている不思議な町です。この三鷹という地名も面白い地名じゃないですか?なんせ、三つの鷹ですからね。そんな三鷹の地名の由来にせまってみます。

「三」の意味は??

三の意味は意外とシンプルです。それは、今の三鷹近辺は江戸時代に「世田谷領」「府中領」、そして「野方領」にまたがっていたことが起因します。数字は割とよく地名に使われていますが、だいたい今回みたいな例か多いです。あとは、五日市等、何日間隔でなにかがあった場合が多いですね。

「鷹」の意味は??

三鷹という地名は鷹という名前が一番インパクトがありますよね。むしろ、これがメインです。その鷹の正体は、ずばりここが「鷹場」だったからです。しかも、徳川家および徳川御三家の鷹狩の場所でした。そのため、三つの領にまたがった鷹場であったため、「三鷹」という地名が誕生したわけですね。

三鷹のあたりは今でも自然豊かですが、江戸時代このあたりは湧き水が湧き、武蔵野原生林でおおわれた生態系豊かな大自然でした。今よりもはるかに。そのため、江戸から近いこともあり、鷹狩りにはうってつけの場所だったのでしょう。特に、井の頭湧水、いまでいう井の頭公園の湧き水は、江戸の貴重な水源でした。

徳川家は鷹狩がお好き

鷹狩というと、今では経験したことがある人の方が少ないと思いますが、当時は大名の娯楽でした。いまでいえば社長ゴルフ的な感覚ですかね。特に、徳川家康は鷹狩好きで有名な大名です。関東移封になった際は、秩父・群馬・栃木と関東をまわるように鷹狩にでかけています。その実は地理を見極めるためともいわれていますが。

そんなわけで、将軍家と鷹狩はきってもきれない関係なんです。三鷹は意外にも将軍家と縁のある土地なんですね。

以上、地名由来シリーズの三鷹編でした!次回はどこにしようかなー。
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国分寺の地名の由来とその歴史について

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todaiji

東京都の多摩に国分寺という市があります。位置的にもちょうど東京都の真ん中、重心があるのが国分寺なんです。地理界隈では、国分寺崖線でも有名ですね。そんな国分寺、ふと考えてみれば少し変わった地名ですよね?その歴史を紐解いていきます。

国分寺は全国に存在する

まずは国分寺の歴史からです。かなりさかのぼります。西暦741年に時の天皇である聖武天皇が、「全国で天災や凶作があいついでいる。仏様の力を借りて鎮静せよ」という国家鎮護のお触れを出しました。そこで決まった内容というのが

  • 各国に国分僧寺を建立する
  • 各国に国分尼寺を建立する

というものでした。ここで注目すべき点は「各国に」という点です。そう、つまり国分寺は当時の国毎に必ず一つ建立されました。今の東京都は当時は武蔵国だったので、武蔵国の国府である府中からほど近い場所に国分寺が立てられました。それが今の国分寺の地名由来です。そのため、東京都の国分寺のことを「武蔵国分寺」なんて表現をします。他国の国分寺とわけるためにですね。

なので、三河の国には三河の国分寺が、尾張の国には尾張の国分寺が建立されました。

壮大な国家プロジェクトの総本社は東大寺

全国に寺を建てる、これはこの時代において壮大なる国家プロジェクトです。ここまで体系だった寺整備はかつてありませんでした。人、モノ、カネ、かなりの量が動きます。

そして当時の都は平城京、つまり奈良です。この国分寺プロジェクトの総本社は我々もよく知っているあの「東大寺」なんです。東京都の人なら修学旅行で一度は訪れている(かもしれない?)東大寺、実は国分寺の親玉だったんですよ。

東京都にある国分寺の現在の姿は?

残念ながら、現在において当時の国分寺の姿はのこっていません。1333年の鎌倉騒乱の時代に、新田義貞軍と足利尊氏軍の分倍河原の合戦の最中に消失してしまいました。ちょうど今の府中、国分寺あたりが主戦場でしたからね。残念なことです。

そして武蔵国分寺内容について、実は近年まであまり分かっていませんでした。近年の発掘調査で徐々にその姿が分かってきたという段階です。それにより、七重塔があったことや、かなり大きい規模だったことはその発掘の成果によりわかってきています。場所はかの国分寺崖線の近くです。南には野川が流れています。風水的にもばっちりな場所だったのがうかがえますね。

他国の国分寺について知ってる方がいたらぜひ教えていだたきたいくらいです。

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道後温泉の「道後」の地名の由来は七街道にある

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dogospa

日本三古湯の一つでもあり、あの坊っちゃんの舞台でもある道後温泉。いやー温泉ソムリエとしては一度はいってみたいですね。ところでこの「道後」っていう地名、気になりませんか?地名ファンとしてこの「道後」の地名の由来を解説したいと思います。

七街道の一つが由来

時は大化改新(645年)にまで遡ります。かなり古いですよ。大化改新はだれもが小学校で習ったので知ってると思いますが、その翌年に詔(みことのり)が出されています。簡単にいうと天皇の命令ですね。その時に地方国府と都を道でつなごうというプロジェクトが発足されました。それが「七街道」です。七街道とは、東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道で、今の道後がある伊予への道はその中の「南海道」に含まれています。

 南海道の終わりにあるため

ここまでくればもう「道後」の地名の由来は簡単です。当時の南海道は伊予国の国府である今治を終点としていました。ちょうど道後は南海道の後ろの地点にあるため道の後ろ、つまり「道後」となりました。考え方としては、都から遠い方を意味していますが、それが今では文字だけ残ったような形となっているわけです。

坊っちゃん以外も有名な松山

道後温泉のある松山は坊っちゃんの影響でどうも近代のものと思われがちですが、「道後の地名の由来」の話の通り、かなーり古い歴史をもっています。なんせ、厩戸皇子(いまはあまり聖徳太子とはいいません)も596年に入浴しているとか。

そして14世紀には歴史界では有名な河野一族が湯築城を築城し、拠点としています。また、1602年には賤ヶ岳七本槍の一人、加藤嘉明が松山城を築城し始めます。そして江戸時代に入ると松平氏が直接温泉経営をしはじめます。

なにが言いたいかというと、なにかを見るときは表面的なものだけにとらわれないでほしいということです。もちろん坊っちゃんも素晴らしいですが、そもそも松山の街や道後温泉が整備されたのはそれ以前にそれらの歴史が蓄積されてきたからです。それらを感じると坊っちゃんがより深く感じられますよ。

と、このまえ二宮くんが坊っちゃんをやっていてふと思ったので書いておきます。道後温泉に行ったら必ず道後温泉入浴記をかくので、温泉ファンの方はぜひみてみてください。

とりあえず、坊っちゃんをまだ読んでない人は日本人として読んでおきましょう。

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塩山の名前の由来と旧高野家甘草屋敷に注目

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山梨の北東部に位置する塩山。何度も車や電車で通っていたのですが、降りたのは初めてです。もちろん、目的は温泉。温泉ソムリエの血が騒ぎます。しかしながら地名ファンとして、塩山っておもしろい地名だとおもいませんか?そもそもこのエリアは大菩薩峠、小仏、釈迦堂、初狩等めずらしい地名が多く存在します。

塩山の地名の由来

塩山は甲州市に属していますが、実際に甲州市の南西部に塩の山(標高554m)に由来します。そしてこの塩の山ですが、もちろん実際に塩がとれていたわけではありません。その語源はしょぼくれるを意味する「しぼむ」「しおる」からきているといわれています。どういうことかと言うと、塩の山に対して、周りには大菩薩嶺を初めとする、2000m級の山々が立ち並んで甲府盆地を形成しています。その盆地の中にぽつんと小さな山がある、その姿が周りの高山と比較し「しおれている」わけです。そこから転じて、「しおやま」つまり「塩山」となったわけですね。

塩山に来たら旧高野家甘草屋敷は見るべし

ところで、塩山駅前にはなんとも立派な屋敷がそびえています。それが、旧高野家で通称甘草屋敷です。

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高野家はこの地で長百姓を務めた家柄で、幕末には名主として苗字帯刀が許されていたそうです。また、高野家は江戸幕府に納める甘草を栽培していたことから、甘草屋敷と呼ばれいます。いわゆる、ステビアですね。

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樋口一葉の資料室を発見!塩山は樋口一葉のご両親が育った場所です。一葉の作品にも塩山が登場します。

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なんと、レンタサイクルがありました。馬屋にいまは自転車がおかれているのは、滑稽ですね。amakusa6奥の建物は子供図書館といして開放されていました。こんなところで一日ゆくーりと本読んでいたい。。。

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きちんと水神宮がまつられていました。良い風情ですね。

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ここも昔のまま。それにしても、でかい!どれだけの富豪だったかを物語っています。

中に入るためには入館料が必要ですが、それ以外のエリアは自由に見ることができます。また、実際に甘草も育成しており、育成過程を見ることができるようになっています。ここは、塩山にきたら絶対に来たほうが良いですよ。北口徒歩1分もかかりません。

ちなみに、四つ割菱(武田菱)もちゃんとあるよ

前回記事(特急かいじとあずさに四つ割菱(武田菱)がある理由)でも書いた通り、塩山にも武田菱がいたるところにあります。まずは、信玄公。

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そして、公衆トイレにも!

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でも菱に採光窓いれちゃだめでしょ!笑 しかし、こういう統一性はすばらしいですね。それだけで特別な場所に来ている感じがしますから。さて、いよいよ温泉へ!
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ドルチェ・ド・サンチョのチーズケーキ「羅臼」が美味

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やってました、北海道物産展。物産展はその土地の食べ物や特産物が売ってるので、地理や文化歴史系が好きなひとにとってはたまらない宝庫です。といわけで、いてもたってもいられずピンときたものを買ってみました。それがドルチェ・ド・サンチョのチーズケーキ「羅臼」

見た目と名前がいけてるのは買う動機になる

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<見た目>

この見た目、いけてますよね。物を買う最初のインスピレーションの大事な要素の一つに「外見」があります。日本の商品ってわりかし見た目がいけてないものが多いですが、この子は違いました。このチーズケーキは「大人」をコンセプトにしているため、黒を基調としています。また、余計な配色は使用せず、シンプルかつ洗練されたイメージですよね。

<名前>

また名前もいけてますよね、「羅臼」!地理感のある人は分かるとおもいますが、羅臼とは地名です。羅臼町ですね。名前の響きをきいてもお分かりかとおもいますが、もちろんアイヌ語です。羅臼町は知床半島に位置するため、知床観光圏の中でもあります。名前も物を買う最初のインスピレーションの大事な要素の一つです。仮にiPhone6sが「apple phone 6 special GTI more 5.1」とかやですよね?それと同じです。

札幌の円山にあるドルチェ・ド・サンチョというお店

ドルチェ・ド・サンチョは札幌円山にあるチーズケーキ専門店です。ここのスタッフは全員が味に納得しないと店頭に出さないため、試作に1年かかることもあるほど、チーズケーキにこだわりにこだわったプロ集団です。

「どるちぇ・ど・さんちょ」は札幌円山のチーズケーキ専門店。店頭には常時20種類以上のチーズケーキが並びます。チーズは、北海道のフレッシュなクリームチーズ、マスカルポーネ、カマンベールチーズをメインに使います。また、ケーキによって本場イタリア産のゴルゴンゾーラ、パルミジャーノ・レッジャーノ、リコッタチーズなども使用。その中から、旬の材料と相性のいいチーズをその都度チョイス!意外な材料同士が絶妙にマッチすることもあり、他のお店では、なかなか見られない組み合わせのチーズケーキが盛りだくさんです。

気になるお味は

濃厚かつ重厚、これがまず口の中にドカンときます。そして様々ななチーズが絶妙なバランスで組み合わされているため、非常に深く豊かなチーズの味わいが楽しめます。ただ濃いだけじゃなく、奥行きも半端でない、そんな表現がぴったりの、まさにコンセプト通りの大人のチーズケーキでした。北海道物産展でもし見つけたらぜひ試してみてください。

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小金井にある質屋坂の歴史歩く

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東京都にある小金井市、多摩東部にあるこの地にあえて訪れようとする人はなかなかいないと思いますが、実はかなりの歴史や史跡が残る町なんです。また町自体もJR中央線の 高架化に伴い、周辺整備が進みかなりモダン化してきています。そんな中、「質屋坂」というおもしろい坂があったので行ってきました。

坂という名が多いには理由がある

この地には国分寺崖線が通っており、町の南北で高低差がかなりあります。これは国分寺崖線や立川崖線が通っている多摩中央部と同じ特徴ですが、それゆえに坂が多いんです。そのため、「〜坂」や「〜坂上」、「〜坂下」という地名が各所にみられます。この質屋坂もこのうちの一つですね。地名には多くの場合その由来の理由があります。地理系の地名が含まれている場合、その多くはその地形に由来します。

質屋坂の歴史

shichiya2一言でいうと、この質屋坂は志木街道の旧道です。志木街道とは埼玉県の志木から武蔵国の国府である府中へと続く街道で、商人が多く往来していたそうです。なぜ質屋坂かというと、当時の下小金井村の星野家が開いていた質屋があったからです。当時は府中が武蔵国の中心だったため、府中の地を中心として人と物の往来が多かったんですね。人見街道なんかもその最たる例です。

徒歩は歴史を感じられる手段

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坂道一つをとっても、上記のようにこれだけの歴史がつまっています。また、史標も建っており、このあたりだけやたらと雰囲気もいけてます。車で通れば一瞬で過ぎ去るただの風景ですが、徒歩でゆっくり街中を歩くと普段思考を止めている多くのことが見えてきます。時間がある時は歩いてゆっくり町中にある道を歩いてみると、おもしろい発見が随所にありますよ。
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御殿場の地名の由来とは徳川家康に起因する

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「御殿場」といえば、まず最初に思い浮かぶのが「御殿場プレミアムアウトレット」だと思います。東京から程よい距離があり、またブランド店の数も都内のそれと比べるとかなり多いので、私もよく訪れます。何よりも富士山と箱根山系に挟まれている地形と環境がグッドなんですよね、ここ。それよりも何よりも私がここで言いたいのは「御殿場」という地名です。この地名、なかなか聞きませんよね?地名に「殿」「宮」がつく場所というのはだいたい何かあった地名なんです。かくいう御殿場も面白い由来があります。

あの徳川家康に由来する

御殿場を語るうえで、徳川家康は外せません。1615年~1616年にかけて、徳川家康はこの地方の沼津代官に、家康が使う御殿(休憩所)とその周辺開発を命じました。実際には、沼津代官が芹澤将監に対して建設命令がおりました。そして、その御殿を中心に御殿新町が生まれ、「御殿のある場所」ということにちなみ、「御殿場」という地名が誕生しました。

実際には使用されなかった・・・・

しかしながら、この御殿は実際に徳川家康によって使われることはありませんでした。というのも徳川家康は1616年にこの世を去っています。享年75歳でした。この時代にしてみれば、かなりの長寿です。天下をとる人物というのは精神的にも肉体的にも強い人なんでしょうね。死因は鯛のてんぷらを食べたことによる食中毒であるとか、胃癌であるとか言われていますが、病状をみるかぎり、胃癌ではないかと個人的には思っています。

なぜこの地に御殿を設立しようとしたのか

ここからは全くの推測になります。この時代、一番隆盛した道は「東海道」です。江戸と京都・大阪を結ぶ道は日本の大動脈でした。これは今もかわっていませんが。そして御殿場の地、これは徳川家康の故郷である岡崎と江戸城の中間地点に位置します。やや江戸よりですが。また、富士山系や箱根山系の影響で自然環境や水源もしっかりしており、また、古くは北条家と武田家で幾度と無く戦が繰りひろげられた場所でもあります。つまり、「要所」なんです。戦略的観点からも、家康の岡崎と江戸の往来という観点からみても、非常に目の付け所がシャープな位置なんです。自分が家康であっても、箱根や御殿場にはなんかしらの戦略的配置をしていたと思います。箱根は箱根の関がありますが。

 

御殿場に訪れる際は、いつもこのようなことを考えてしまいます。アウトレットで買い物をしているときはそんなことは吹き飛びますけどね。他に殿とつく地名があれば、調べてみたいものです。

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東京都周辺に「武蔵」という名前が多い理由と由来について

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東京都周辺には「武蔵」の付く地名が多くあります。武蔵五日市、武蔵小金井、武蔵境、武蔵小杉、武蔵浦和、武蔵溝ノ口・・・・挙げればきりがありませんが、なぜ武蔵の地名が多いのかを紐解いてみたいと思います。

武蔵国の成立

東京都・埼玉県・神奈川県の一部は7世紀前後の「令国制」の開始とともに「武蔵国」として成立しました。いわゆる武州です。令国制は地方行政区分であり、いまでいう都道府県制ですね。ずばり、今で言う一都二県の一部は令国制の下、併せて武蔵国として産声をあげました。また、武蔵国の国府(いまでいう県庁)として定められたのが「府中」であり、武蔵国の分寺として定められたのが「国分寺」でした。国分寺はもう焼けてしまってありませんが。

詳細はこちら→分倍河原駅に新田義貞像がある理由!鎌倉幕府と国分寺の消失へ

武蔵国はいつまで存在した?

武蔵野国、実はほんの最近まで存在してました。日本の歴史からみたら都道府県制なんでできてわずか100年ちょいです。武蔵国であった時のほうが東京都である期間よりも遥かに長いんです。ということで、武蔵国が解体されたのは、明治維新後です。いわゆる廃藩置県ですね。いやー残念ですね。東京より武蔵という言葉の方がかっこいいですし、武蔵国の多摩出身ってなんか響きがいいですしね。というより、今の都道府県名より旧国名の方がかっこいい響きが多いのは、やはり現代人はユーモアやセンスがなくなってしまったのでしょうか。

武蔵国の由来

実はこれ、諸説ありますが詳しく分かっていないんです。数々の書物のなかに「ムサシ」という言葉がでてきたり、詩の中にも「ムサシ」と出てくるものはありますが、それが何故武蔵なのか、どうやってその字になったのかはいまだによくわかっていません。歴史というのはそういう自称が数多くありますが、まぁいいんです。武蔵は武蔵なんですから。

みなさんも、「武蔵」とつく地名を訪れるとき、武蔵国に思いを馳せてみてはいかがでしょうか?
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東北地方で「館」の名前がつく地名の由来と意味とは

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東北地方を旅したり、地図を見ているとやたらと「館」もしくは「舘」という字のついた地名が多いことに気がつきます。主な例をあげると・・・・・

  • 平館(青森)
  • 田舎館(青森)
  • 大館(秋田)
  • 角館(秋田)
  • 飯館(福島)
  • 月館(福島)
  • 築館(宮城)
  • 館岡(岩手)

うえに挙げたのはほんの一例ですが、おそらくもっとたくさんあります。群馬県、栃木県にも「館」がつく地名が一部存在しますが、多くは東北地方となっています。ちなみに、「館」の意味ですが・・・・・・

「たち」「やかた」とも読む。もともと,六位以下の家柄をさしたが,次いでその邸宅をさすようになった。特に平安時代には国司や郡司の邸宅をさしたが,中期以降,地方土豪の武士化につれて,砦など軍備を伴った居所を意味するようになった。

つまり、軍事的な要素が強いことを意味します。東北地方は昔「蝦夷」や「道の奥、または未知の国」という意味での「みちのく」と呼ばれており、中央集権社会から隔絶された、いわば「別の国」でした。坂上田村麻呂が東北征伐を行っていることからも、容易に想像できますよね。

 

もちろん遠征ですので、戦いが終わったら都へ凱旋します。その時に残してきた砦や軍事拠点が「館」ということです。「館」のつく地名のそばには「柵」、「関」、「門」などという地名が多く存在しますが、館を中心に柵・関・門を設けることによって、強固な軍事拠点を築いていたのでしょう。

 

九州から関東にかけてはすでに中央集権社会に組み込まれていたので、東北は「遠征」が発生し「館」を中心とした軍事拠点を楔を打つように作ることによって、点が面となり、その支配下が中央集権社会にさらに組み込まれ日本という国が成り立ったのだと想像しています。

 

地名一つとるだけでも、昔の歴史とイメージが広がります。
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