多摩から世界へ

徒然なるままに、多摩より世界へ情報発信をしていきます

Category: 歴史 (page 1 of 4)

フランス政府に正式に認められた三体の自由の女神像はどこにある?

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Statue of Liberty and New York City

お台場関連でもう一つ。お台場に自由の女神像がありますよね?本家より小さい。ですが実はお台場にある自由の女神像ってフランス政府で認められている世界で三体の女神像のうちの一つなんです。実はなかなかすごいんです。

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日本人ならお台場の歴史くらい知っておこう

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odaiba

お台場にふらっと行ってきました。お台場は1990年代後半より一気に開発が進み、またたくまに全国区の知名度を誇るようになりましたね。外国人観光客もとどまることをしらず。しかし、実はお台場は150年ほど前に日本で一番あついスポットであったことをご存知ない方は多いのではないでしょうか??

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やはり武田信玄と甲州印伝は偉大なり、財布に迷ったら印伝で!

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inden

伝統工芸品にはまっていると書きながら、よくよく考えれば多摩に最も近い伝統工芸品を書いていませんでした。それではいかん!ということで多摩に最も近い甲州の伝統工芸品、「甲州印伝」をご紹介します。最近では印伝を愛用している芸能人が多くなり、その知名度も一気に全国区となりましたね。

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国分寺の地名の由来とその歴史について

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todaiji

東京都の多摩に国分寺という市があります。位置的にもちょうど東京都の真ん中、重心があるのが国分寺なんです。地理界隈では、国分寺崖線でも有名ですね。そんな国分寺、ふと考えてみれば少し変わった地名ですよね?その歴史を紐解いていきます。

国分寺は全国に存在する

まずは国分寺の歴史からです。かなりさかのぼります。西暦741年に時の天皇である聖武天皇が、「全国で天災や凶作があいついでいる。仏様の力を借りて鎮静せよ」という国家鎮護のお触れを出しました。そこで決まった内容というのが

  • 各国に国分僧寺を建立する
  • 各国に国分尼寺を建立する

というものでした。ここで注目すべき点は「各国に」という点です。そう、つまり国分寺は当時の国毎に必ず一つ建立されました。今の東京都は当時は武蔵国だったので、武蔵国の国府である府中からほど近い場所に国分寺が立てられました。それが今の国分寺の地名由来です。そのため、東京都の国分寺のことを「武蔵国分寺」なんて表現をします。他国の国分寺とわけるためにですね。

なので、三河の国には三河の国分寺が、尾張の国には尾張の国分寺が建立されました。

壮大な国家プロジェクトの総本社は東大寺

全国に寺を建てる、これはこの時代において壮大なる国家プロジェクトです。ここまで体系だった寺整備はかつてありませんでした。人、モノ、カネ、かなりの量が動きます。

そして当時の都は平城京、つまり奈良です。この国分寺プロジェクトの総本社は我々もよく知っているあの「東大寺」なんです。東京都の人なら修学旅行で一度は訪れている(かもしれない?)東大寺、実は国分寺の親玉だったんですよ。

東京都にある国分寺の現在の姿は?

残念ながら、現在において当時の国分寺の姿はのこっていません。1333年の鎌倉騒乱の時代に、新田義貞軍と足利尊氏軍の分倍河原の合戦の最中に消失してしまいました。ちょうど今の府中、国分寺あたりが主戦場でしたからね。残念なことです。

そして武蔵国分寺内容について、実は近年まであまり分かっていませんでした。近年の発掘調査で徐々にその姿が分かってきたという段階です。それにより、七重塔があったことや、かなり大きい規模だったことはその発掘の成果によりわかってきています。場所はかの国分寺崖線の近くです。南には野川が流れています。風水的にもばっちりな場所だったのがうかがえますね。

他国の国分寺について知ってる方がいたらぜひ教えていだたきたいくらいです。

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桔梗屋信玄餅にまつわる知ってるとお得な3つの話

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shingenmochi

山梨県にいってきました。「週末は山梨にいます」というキャッチフレーズさながらに、私の住んでいる多摩は山梨にほど近く、車で1時間も飛ばせばついてしまいます。というわけで、年間何回山梨へ行っているかわからないほど山梨を愛している多摩人ですが、そんな山梨の定番のお土産といえば、「桔梗屋信玄餅」ですよね?

そもそも信玄餅ってなんで信玄餅っていうか知ってますか?なぜ、武田の家紋ではない桔梗が使われているのか?そして信玄餅のアウトレットがあるって知ってましたか?実は掘ると深い、知ってるとお得な信玄餅にまつわる3つのお話をします。

信玄餅の由来について

信玄餅の信玄とは、いわずもがな、甲斐の英雄「武田信玄」です。信玄公は戦・治政に多くの手腕を発揮しました。信玄のいる甲斐は山に囲まれた盆地であり、他国に遠征するためにはそれなりの食料を携えないといけませんでした。そこでうまれた戦用携帯食が信玄餅の原型、といわれています。

そしてもう一つ、山梨県ではお盆に安倍川餅を食べる風習があります。そこからきたという説がありますが、私見では、この安倍川餅を戦用の携帯食に変えたものが信玄餅かな、と思っています。きな粉はたんぱく源となりますし、黒蜜は疲労回復にききます。戦食としては最高の組み合わせですよね。

信玄なのになぜ桔梗?

武田家の家紋といえば、あの有名な「四つ割菱」ですよね?一方で、桔梗といえば織田信長を裏切ったことで有名な明智の紋。裏切り紋ともいわれています。「信玄餅」なのに「桔梗屋」。つまり、武田信玄と明智光秀。なにか関係があってこの組み合わせになってるのでしょうか?

といろいろ思考をめぐらしてみましたが、その答えはなんとも面白くない答えでした。というのは「桔梗屋はただの屋号である」という、歴史家からするとなんともおちがつけ難い結果に笑

まぁいいんです!桔梗屋信玄餅というのは、それですでに一つの単語として成立していますし、あの信玄餅の袋の桔梗紋はなかなか綺麗ですからね。結果はこんな感じですが、その過程であれやこれや考えるのが歴史のおもしろいところです。という風に自分を納得させました笑

四つ割菱について、詳細はこちら→特急かいじとあずさに四つ割菱(武田菱)がある理由

梗紋紋について、詳細はこちら→アメックスの高台寺塔頭 圓徳院「京都特別観光ラウンジ」で謎を発見した話

信玄餅を買うには桔梗屋アウトレットがお得

実は桔梗屋にはアウトレットが存在します。山梨県笛吹市にある桔梗屋のアウトレットは今やバスツアーにも組み込まれるほど大人気となっています。土日はすごい人ですよー。その中でも・・・・すごいのが、なんといってもこれっ!

tsumeho

安っ!!!!一つの値段じゃないですよ?10cm×15cmに好きなだけ詰め込んでの値段ですから、驚きもんです。値段は変わってるかもしれないのであしからずですが、お土産屋さんで買う信玄餅よりはるかに安い値段にはかわりありません。

その他にも信玄餅ソフトクリームが食べれたり、桔梗屋の色々な商品が売ってます。私も久々に信玄餅を買って帰りましたが、安定のおいしさでした。

 

山梨県にきたらぜひ、アウトレットいってみてください。ただし、土日はほんと混むので、悪しからず。週末は山梨に、ぜひ。
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真田安房守昌幸から学ぶ、守・介・掾・目の違いと意味について簡単に解説

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rokumonsen

大河ドラマ、見てますか?いやー真田丸、面白いですね。大河ドラマは脚本と監督によってかなり面白さが左右されますが、さすが三谷幸喜。新選組もおもしろかったですが、今回の真田丸もがっつりおもしろいですね。もちろん毎週見てます。

さて、その真田丸ですが、堺雅人演じる真田幸村を差し置いて、異様なほどの迫力と存在感を放っているのが真田幸村の父、真田安房守こと真田昌幸ですね。ドラマでも「安房守」という言葉は必ずといっていいほどでてきます。

さてさて、この「安房守」、どういう意味だかご存知でしょうか?安房守だけでなく、時代劇なんかを見ていたら「~守」という言葉は頻繁に聞きませんか?このカラクリを知れば、時代劇はまたぐっとあなたの近くにきますよ。簡単にご解説。

「守」はずばり、役職名である

「守」は簡単にいってしまうと、今でいう「県知事」のことなんです。簡単にいうとですよ。昔は中国から輸入した「律令制」という官吏制度のもと、中央から地方の国へ、役人を派遣していました。国司なんて言葉が使われますが、ゴリゴリの中央集権体制ってことですね。

例えば、今でいう青森県は昔は「陸奥」といいました。中央から陸奥に県知事クラスの役人を派遣するとき、その人は「陸奥守」となります。

つまり、「派遣先の国名+役職名」「~守」の正体ってことです。

あれ?真田って安房と関係あるの?

ここまでくれば、あれっ?と思われる方もいると思います。それもそのはず、真田安房守の「安房」というのは、いまでいう千葉県の一部です。真田は信州上田・沼田のエリアですよね?縁もゆかりもない官名がなぜついてるのでしょうか??

実は、この「~守」という制度は平安時代でこそ機能していました。しかし戦国時代に入ると自分で「~守」を自称したり、役職を世襲するなど、制度自体が事実上の機能不全におちいっていました。官名のインフレですね。

そのため、大名でなくても「~守」を自称している武将はわんさかいました。逆に言うと、それだけ中央の力が弱まって、地方の国主の力が強くなってるかを物語っています。まさに下剋上の世の中ですよね。

正式には四等官というよ

ここまできた方はもう少し詳しく。この「~守」というのは四等官といいます。「四」とつくくらいなので、「守」の他にも役職名が存在します。それが「介」・「掾」・「目」です。織田信長なんかは「織田上総介信長」といったりしてますよね。上総は千葉。なぜか千葉は人気なんですね笑

これも簡単にいうと

「守」⇒「介」⇒「掾」⇒「目」

という順に位がさがってくんです。時代劇でよくでてくるのは「介」までですが、よーくきいてると「掾」なんかもでてきますよ。

昔の言葉を楽しもう

と、いったように、大河ドラマのワンフレーズをとっても、かなり世界が広がるんです。そして、一つその世界をしれば、さらに大河ドラマが楽しめるようになりますよ。ちょっとした言葉にも意味がある、それが奥深いんです。

ちょいちょい、大河ドラマで気になったフレーズをご紹介していこうと思います。

それにしても、真田丸のオープニング音楽いけてますよね。あれなくては、真田丸ははじまりませぬ。
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意外と多摩人も知らない、玉川上水の歴史を簡単に解説

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玉川上水。多摩に住んでる人であれば一回は見たことや聞いたことはあるのではないでしょうか?今でも玉川上水沿いは緑多く、生態系が豊かなことで親しまれていますが、玉川上水とは何物なのか?だれがいつ作ったものなのか?意外と多摩人でも知らない人が多いので、分かりやすく解説します。

玉川上水はいつ作られたのか?

玉川上水は「上水」と名がつくとおり、自然の川ではなく人の手によって作られた水の路です。そして玉川上水は多摩川の羽村地点から取水し、武蔵野台地を通り、四ツ谷まで続く水路です。そんな羽村から四ツ谷までの約43kmからなる水路をいつ誰がつくったのか?時代は江戸時代まで遡ります。時に1653年のことでした。

水路工事の発注者は「江戸幕府」です。そして工事請負人が「庄右衛門・清右衛門兄弟」、世に言う「玉川兄弟」ですね。

まとめ

  • 玉川上水はいつ作られたの?→1653年(江戸時代)
  • 玉川上水の長さは?→羽村から四ツ谷までの約43km
  • 玉川上水は誰が作ったの?→発注者は江戸幕府。工事請負人は玉川兄弟。
なぜ玉川上水を作ったのか?

ではなぜわざわざ43kmもの玉川上水を作ったんだと思いますか?それは、「江戸の水不足の解消」です。当時の江戸は井の頭池(現、井の頭公園)を取水口とする「神田上水」「赤坂溜池」(現、溜池山王)を駆使し江戸の水源としていましたが、江戸の人口爆発により水不足が発生してきました。そこで登場したのが、多摩川を水源とする水路です。それが、玉川上水でした。

まとめ

  • 玉川上水はなぜ作られた?→江戸の水不足問題解消のため
  • 神田上水や赤坂溜池だけでは、江戸の人口をカバーしきれなくなった
1年もかからず、工事終了

玉川上水、なんと1年もかからずに完成してるんです。工事着工が1653年(承応2年)年4月4日に対し、完成が同年11月15日です。当初は取水口を日野に定めていましたが、水を吸いやすい関東ローム層にはばかられ断念。次に福生を取水口に定めましたが、硬い岩盤により断念。最終的に羽村が取水口となったわけです。

そして、羽村から四ツ谷までの高低差はたった約92mでした。途中で上り坂にあたれば水は止まる高低差ですが、巧みに武蔵野台地の稜線を使ったことで、高低差の問題はクリア。そして、素堀り(補強等を行わず、掘削のみ)方式での引水のため、短期間で工事が完了。ここに、玉川上水が完成しました。

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玉川上水完成の功績で、工事請負人である庄右衛門・清右衛門兄弟は玉川姓をあたえられたというわけです。

まとめ

  • 工事期間は1653年4月4日~11月15日→素堀りにより短期間で完成
  • 高低差は約92m→武蔵野台地の稜線を利用
玉川上水の功績

ここからは私見です。玉川上水の最大の功績は「武蔵野開拓」「現在に続く豊かな生態系」の二つだと考えています。江戸時代、現多摩である武蔵野台地はうっそうとした武蔵野林がひろがっていました。そこに水田や畑を作ることができ、江戸の一大生産拠点となりえたのは、玉川上水からの引水の賜物です。

そして、玉川上水は現在でもなお自然豊かな生態系を維持しています。春から夏にかけてはホタルも拝むことができます。

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カモちゃんももちろんいます。写真は小さくて見えずらいですが。

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そんな玉川上水、今では文化財保護法に基づく史跡に指定されています。いつかは、羽村取水口から玉川上水の終点まで歩いて旅をしたいと思っています。

玉川上水って実はこんな素晴らしいものだったって知ってましたか?春には桜も綺麗なんです。この記事をお読みの方はぜひ、玉川上水に一度足を運んだり、改めて玉川上水を見つめなおしてみてはいかがでしょうか。
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花桃の里、そして足利氏古河公方の本拠地、古河城が夢の跡

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茨城県の古河にやってまいりました。古河、ここは歴史を知っている人であれば一度は訪れてみた場所なんです。そう、何を隠そうここ古河は古河公方の本拠地なんですから。

名にし負う古河公方

「古河公方」は室町幕府を開いた足利氏まで遡ります。鎌倉幕府が崩れ、足利尊氏は京都に室町幕府を開きました。そして、足利はもともと関東の有力源氏なんです。そう、簡単に言ってしまえば古河公方は関東における足利氏における関東統治機関みたいなものです。そう簡単には言えませんが、そう思っておいてけっこうです。なので、史跡もたくさんありまする。

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なので、「足利銀行」もありまする。ギャグではありませんよ。由来はそういうことです。

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なんといっても古河城!

古河に訪れた最大の目的は「古河城」です。古河城は古河公方の居城ですね。さぁ、行ってみましょう!

さっそく街のいたるところにこんな史跡板が。いいですねー。ここには江戸時代の徳川重臣、「土井利勝」のことがかいてありました。そういえば江戸時代になると古河城は土井利勝が治めていましたからね。そういうことか。

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うーん、これは城が近づいてくる予感しかない笑 古い漆喰蔵が現れてきました。雰囲気いいですね。

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きなすった!いかにも堀っぽい!ということは・・・・・

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やはり!ここは堀ですね。今では遊歩道になってます。現代版堀の活用法。

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堀をしばらく歩くとこんな感じの建物が・・・・ん、、、これは!!!

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もうお気づきの方もいらっしゃると思いますが、古河城は明治初期に廃城になり、その役目を終えています。そして今は古河城跡に歴史博物館が残っているのみで、残る史跡はありません。

ただ、明らかに堀の跡であろう場所や、高低差を利用した急斜面防御、土盛。そんな遺構がみてとれます。足利氏、松平氏、小笠原氏、と続いた古河城、兵どもが夢の跡でした。

古河城の意義

古河城は時代によって様々な意義変化がありました。

  • 室町時代→足利氏の関東統治としての拠点
  • 戦国時代→北条氏が小田原拠点として勢力を広めると徐々に重要性が薄れる
  • 江戸時代→江戸の北方の防衛処であり、かつ日光参拝途中の宿場町

だからこそ、古河という地は歴史的にも非常に重要な意味を持っています。

古河の関係者、これを見て!!古河への警鐘

しかしながら、古河駅を降りたら、ひじょーに寂しい町でびっくりしました。古河城の雰囲気があるのは、古河城のまわりだけ。「花桃まつり」「歴史の街」とところどころに謳ってはいますが、統一性がありません。

さらなるどん底に突き落とされたのはこれ。

koga2

なんなのよさ、これ!笑 古河公方の拠点であるほどの歴史遺産をもつ町なので、こんなことせんでもよろしいんですよ。じゃなくてさ、

  • 街全体を小江戸のような雰囲気にする
  • 古河城への道は石畳にして、出店をかまえる
  • 駅を木造もしくは木造似造にする

これだけでも、歴史の街感はでます。写真映えもしますし。

そして、「花桃」ですが、そもそもなぜ古河で花桃が有名かというと、江戸時代に古河城城主である土井利勝が燃料と食料自給のために植えたのがはじまりです。つまり、花桃も歴史と結び付けられるんです。

非常に育てやすいですよ、花桃。

そう、古河はすべては歴史からはじまっているんです。もっと歴史の街らしくしないと、過疎化していきますよ。足利氏に思いを馳せながら、古河ぶらり旅終幕。
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アメックスの高台寺塔頭 圓徳院「京都特別観光ラウンジ」で謎を発見した話

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nene3

アメックスの高台寺塔頭 圓徳院「京都特別観光ラウンジ」に行きました。ここは清水寺や八坂神社に近く、東山近辺を一通り見た後に休憩するには最適な場所にあります。

そこで、思わぬある「謎」をみつけたので、ご紹介します。

ねねが作りし高台寺

高台寺は豊臣秀吉の正室であるねねが秀吉の冥福を祈り建立しました。秀吉とねねは戦国時代では珍しく、両想いで結婚した例として有名なんです。しかも高台寺へ続く道は「ねねの道」といって、どれもこれも歴史家にはたまらない場所です。

そして、アメックスラウンジのある場所は高台寺の中でも「圓徳院」といって、ねねが晩年をすごした場所です。

さあ、行ってみよう

さっそく行ってみましょう!アメックスラウンジはねねの道の途中にあります。でかでかと看板が掲げられているわけではないので、注意しないと見つけられません。

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道なりにすすむと、小庭が見えてきます。そこに、ラウンジの入り口があります。ちなみに受付に常時係員がいるわけではないので、鐘を鳴らして係りの方を呼びます。これ、なんか粋な感じがしてめっちゃよくないですか?

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係りの方にカード(ゴールドカード以上のみ)をドヤ顔でみせて、名前を入場者記録表なるものに記載すれば、中へといざなってくれます。私が訪れた時は夕方でしたが、その日は3名くらいしか訪れていませんでした。

<サービス内容>

  • 圓徳院書院・知客寮にてお茶のご接待
    (宇治茶、梅湯、昆布茶、香煎茶など日によって変わります)
  • 夏季期間中は、冷たい麦茶、冷やし飴をご用意しております。
  • 圓徳院の拝観無料
  • 高台寺・掌美術館の拝観割引
  • 高台寺駐車場1時間無料サービス
  • ご同伴者3名さままでご利用いただけます。

中はこんな感じになっています。ラウンジが和室ってところがまた良いですよね。これが近代的な設備だったら、京都にある意味が半減以下ですし。しかもめちゃくちゃ静か!雰囲気抜群です。

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中庭も望めます。

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なんか明治時代の政治場みたいな感じ笑

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立派な机です。ねねに想いを馳せながら。

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奇妙奇天烈な謎を発見

アメックスラウンジでは、その季節に応じた飲み物が出されます。私が訪れた時は寒かったので、梅茶でした。見たこともない立派な器で出されます。

器には「桐」が施されています。これは言うまでもなく、豊臣家の家紋ですね。係員の人も誇らしげに豊臣家の家紋であること説明していました。いやいや、知ってるからっ!!

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そして器の裏はどんな絵が施されているか見てみたら・・・あれーっ!!!!こっこれは、「桔梗っ!!!!」

nene6桔梗、歴史を知っている人ならすぐピンとくるはずです。そう、「明智」の紋ですね。なにを隠そう、明智光秀は織田信長を裏切り殺しました。本能寺の変ですね。なので、桔梗紋というのは当時裏切り紋とも呼ばれていました。

そして、これも何を隠そう、明智光秀を倒し、信長の仇討ちをした人物こそ、豊臣秀吉です。そのため、桐と桔梗の組み合わせは、果てしなく有り得ない出来事なんです。

桐の説明を歴史家である私にしてきた係員の人に「でもこれ、裏に桔梗紋ありますけど」といったら、急にワナワナ震え始め、「あ・・あぁ、確かに・・そうですね・・・」どこかへ消えていってしまいました笑

誰か知ってますか?

豊臣家にとって、桔梗はタブーです。それを知らない現代の人がこの器を作った説しか考えられないのですが、それでも高徳寺にまつわる人ならすぐにわかるはずです。

南光坊天海????いや、まさかな・・・

だれか、もし面白い説を知っていたら教えてください。
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八坂神社に家紋が二つある謎にせまる

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yasaka1

八坂神社に行ってきました。八坂神社に来たのは2回目でしたが、なんと新たな発見が。やはり京都は何回来ても新たな発見があるものですね。その発見というのは

「八阪神社に家紋が二つあるやんけ!」

その瞬間、頭の中が家紋モードに切り替わりました。うーん、不思議。

左三つ巴と木瓜

yasaka3

こんな感じです。左にある家紋が「左三つ巴」で右にあるのが「木瓜(五瓜に唐花)」です。

左三つ巴があるのはなんとなく理解できます。というのも、左三つ巴は「神紋」なんです。多くの神社で使われているので、これがある意味はわかる。問題は木瓜です。

なぜ木瓜なのか、これ色々調べましたが、実際のところよくわかりませんでした。ここまでわからないのははっきりいって久々です。

いくつか説がありますが、どれも「説」の域を脱しません。例えば「織田信長がパトロンをしていたため、織田家の家紋である織田木瓜を模した」というものや、「八阪神社のもともとの神紋がきゅうり(胡瓜)に似ていた」というものもあります。しかし、どれをとってもはっきりしませんし、八阪神社のサイトにもなかったですね。

誰が教えて

家紋には必ずその由来とその家紋している理由があります。そしてなによりも、二つ家紋があるというのは、まぁまぁ珍しいんです。

yasaka2

神紋である三つ巴と並んで配置されているということは、それなりになにか強い理由と政治が働いたからと考えられます。

誰か、知ってる人がいたら教えてくださいね。もちろん推論でもかまいません。考えること自体が面白いんですよね、こういうのは。自分の考えでは「胡瓜系」がなんらかの因果があるかと思うんですが、それを裏付ける調査をするには京都滞在時間が足りませんでした。

そういや、祇園四条のセンターとあって、八坂神社にはかなりの外国人観光客がいました。京都の集客力はすさまじいですな。イタリアの集客力となにやら似ている点を感じました。歴史遺産をもっているだけで集客力が半端ない。あとは、それを倍増させられるかが、真の観光集客力ですね。
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